「震災から5年 被災地応援視察ツアー」 スティーブ社長の感想

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3月19日~20日、私を含めて総勢17名で被災地の懐かしいボランティア現場を見学してきた。参加者の多くはボランティアツアーのリピーターで、久しぶりに再会したことでこの五年のさまざまな記憶や思いでがよみがえった。被災者を助けよう、という単純で純粋な気持ちで結ばれた私たち。この不思議な縁は、素直で美しく、とても捨てがたいものです。

仙台駅で集合して、先ず向かったのは宮戸島の月浜。工事中の海水浴場をながめながら海の幸バーベキューをハングリーに食べたところ、あの「海坊主」たる小野仙一さんが現れた。小さな声で海苔養殖の復活を手伝ってくれた皆様へのお礼の言葉を述べたあと、自家製の海苔をさりげなく配って軽トラックで消えた。仙一さんは相変わらず照れやさんのようだね。

震災の年の7月、一番最初に手伝った里浜の尾形文秀さんも挨拶にきてくれた。超忙しい時期なのに、「皆さまがいなければ今の忙しさもない」と言ってわざわざ月浜にきてくれた。「手伝ってもらって当たり前」という被災者もいるけど、ボランティアから受けた恩を決して忘れない、尾形さんのような素敵な人もいる。

海の真ん前、何回もお世話になった民宿「山根」が、外壁を貼りかえって元気よく営業を続けている。2011年の秋から山根以外に「上の家」もがんばってきたが、その後浸水被害を受けた民宿二軒が営業を再開し、流された民宿一軒も再築された。震災前の民宿の数の三分の一にも満たないが、海苔産業に続いて観光産業も着実に回復に向かっている。

「月光」という海苔生産グループはボランティア活動2年目から手伝ったが、グループ補助金制度のおかげで2年前から立派な海苔生産工場が順調に回り、メンバー7人と従業員8人が安定した生活を送っているようだ。ボスの山内さんは留守だったが、若者たちが自慢げに工場を案内し、復興ぶりをアピールした。

高台移転先での新築住宅を見れば復興のスピードや勢いが大体分かる。月浜の場合、宅地造成が早く完成し、住宅工事もほぼ終わっている。いわゆる「復興公営住宅」は数軒あるが、ほとんどの家は建て主の思い入れの入った大きくて立派な家です。

野蒜海岸には、高い防潮堤が数キロも続き、海水浴場としての魅力を落しているが、月浜の海水浴場は「日本三景松島」の一部であるためこの運命を避けることができた。高さはわずか2メートル前後、勾配のゆるい、いわゆる「海水浴場型」の渡りやすい堤防は現在工事中ですが、進行具合から判断すれば今年の夏までに完成し、本格的な海水浴が楽しめそうだ。ボランティアツアーで大変お世話になった、海の真ん前にある民宿山根(http://www.k2f.jp/yamane/)に泊まるなら、予約を早めに!また、海苔のご注文なら、海苔生産グループ「月光」 (http://gekkoh7.info/374)にご注文下さい。自称「縄文人」の尾形文秀さんに会いたくなったら、Facebookを通して声をかけて下さい。

「見学が終わったら、バスで南三陸町志津川の「ホテル観洋」に向かった。被害がひどかった東松島市の矢本地区や航空自衛隊の松島基地を通り過ぎ、石巻市に入った。人命が沢山失われた門脇地区は高く伸びた草むらで広大な原っぱのような光景になっていた。足場の壁に包まれた門脇小学校は、記念物として残るか、残らないかを迷っているような感じだった。日和大橋の上からの眺めは、「生々しい」と言えるようなものは何も残っていないが、かと言って、「復興が進んでいる」という感じもしない。震災の後片付けが終わった、旧北上川の河口付近の広大な土地はどうするつもりだろう。結論が出るには、まだしばらく時間がかかりそうだ。

女川町は、狭い旧中心市街地の嵩上げ工事が進み、身の覚えのあるような特徴や地形はほとんど盛土の海に沈んでしまった。あれだけ高く見えた病院の敷地も盛土工事に囲まれて周りとの落差がどんどん小さくなってきている。

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著名建築士版茂によって設計されたJR石巻線の女川駅の新駅ビルは確かに素晴らしい。その中に入っている休憩場や温泉は、地元の方々にとってどれほどありがたいものか。駅前から百メートルほど海の方向に走る新しい商店街は、一流のデザイナーによって統一的に設計された、木材の温もりを活かした「やすらぎ空間」を上手に実現できた。地元に残った人々にとって「商店街機能」を果たすかどうかは別として、行政は行政なりに気を配り、「素敵なもの」を創ろうとしている努力も感じる。

翌朝バスに乗り、海の真上の絶壁に建っているホテル観洋から南三陸の志津川地区に降りた。女川町を超える、盛土工事の迷路。たどり着いた防災対策庁舎の屋根より、盛土の山々が高い。被災地を象徴するこの防災対策庁舎を記念物として残しても、上から見下ろすことになりそうだ。復興政策のさまざまな矛盾を痛感する、不気味な光景だった。

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志津川を二度と津波被害にあわせないという理念の下で進められている復興計画は、結果として志津川を殺すことにならないかと、心配してならないのだ。「安全・安心の新しい志津川」を約束されている市民は、もう既に5年間我慢して待っている。盛土工事を完成するには、現在元の低い地盤にある道路を順次計画地盤高まで持ち上げないといけない。道路網を上にもってくるのに、最低あと3年がかかると思う。うまく行っても、新しい中心市街地の骨格が見えてくるのは早くても5年先であろう。

今まで5年、これから5年。10年我慢しきれる志津川人は、何人いるだろうか。一旦、地元を離れた若者は、何人戻るだろうか。「人口を残す」という目的意識の薄い復興政策の結果、「安全・安心の幽霊の町」にならないようにと、切に願っている。

「さんさん商店街」で買い物した後、再びバスに乗って三陸道経由で石巻の牡鹿半島に向かった。牡鹿でのボランティアツアーでいつもお世話になっていた民宿「瑞幸」で昼食に刺身定食をいただいた。くじらの刺身はもちろん、海藻の吸い物も絶品だった。法事の仕出しで忙しかったマスターも、バスが出発するときに顏を出して挨拶してくれた。牡鹿半島で一番早く営業を再開し、建設作業員やボランティアを宿泊させながら地元住民のニーズにもしっかりと応えてきた「瑞幸」は、繁盛して当然だと私は思う。

瑞幸の後は東浜へ。「半島の半島」とも言える東浜には、竹浜や狐崎浜という懐かしいボランティア現場がある。狐崎浜には、牡蠣養殖業者の阿部政志さん、奥さん、おばあちゃんが待っていてくれた。ぷりぷりした蒸し牡蠣を大量に消費しながら、阿部さんの話しを聞いた。牡蠣養殖そのものが大分復活しているが、生活はいろんな意味で厳しい。岬に守られて、津波被害が割に少なかった狐崎浜だが、人口が半分以下に減り、浜は構造的な人手不足になっていること。多くのお友達が浜から離れ、寂しくなったおじいちゃんとおばあちゃんのこと。子育て世代が少なくなり、近くの小学校や中学校の存続が心配されていること。暗い話しの中で、いつも集落に希望の光を持ち込むのはボランティアだという。この日も、高校を卒業したばかりの若い女性が阿部宅に泊まり、毎日家の仕事を手伝っているそうだ。おじいちゃん、おばあちゃん
がどれだけ元気をもらい、どれだけ喜んでいることか。

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この状況は、すぐには変わりません。阿部家は、明るく生きていくために、ボランティアの力が必要です。「最少催行ライン8名」の当社のボランティアツアーは、もう成り立たないのだ。阿部家と縁のある方も、ない方も、時間がとれたら是非手伝いに行って下さい。阿部政志さんのFacebookを通して連絡がとれます。牡蠣のご注文も、もちろんどうぞ!

最後の訪問先、鮎川浜。震源地に一番近い町だが、復興が驚くほど進んでいない感じ。当社の一番最初のボランティアツアーは、2011年6月4~5日、この鮎川浜で行われた。電気もガス、水さえなかったときだ。キャンピングカーを中心に、テントを張ってボランティアの生命維持を図った状況。そこに、必死に一人で家の泥出しをしていたおじさんがいた。奥様は津波が怖くて鮎川浜に戻りたくないと言っていたようだが、旦那さんが何とか家をきれいにして奥さんを呼び戻したいという。その戦いに、私たちボランティアが加わった。

その家はどうなっているのか、旦那さんと奥様がそこで幸せに暮らしているのか知りたくて、5年ぶりその現場を訪れた。家があるはずの場所に、今では珍しい瓦礫の山。その当時手伝ったおじさんのことを心配し、現場に居合わせた解体業者に聞いた。「持ち主はどうなっているのか?なくなったのか?鮎川浜に住むのを諦めたのか?」

私の心配そうな顔を見つめながら解体業者が微笑んで答えた。「大森さんは鮎川浜にいるよ。山を買って、ログハウスを建てて、そこで奥さんと2人で元気そうに暮らしているよ」と。

「旦那さんの勝ちか、奥様の勝ちか。いや、二人とも勝ったな」と思い、ちょっと嬉しくなった。

帰りのバスの中で、この5年間の活動を振り返り、胸がじわじわと熱くなってきた。被災者やボランティア、支援者や協力者、どれだけ多くの素晴らしい人間たちと、どれほど素晴らしい縁を結べたのかと、一人一人の顔を浮かべながら思った。80回のボランティアツアーを実施した上での最初で最後の「視察ツアー」のつもりだったが、これで終わりにしたくないと、心の中につぶやいた。今回の旅仲間15名と抱き合いながらのお別れとなったが、「ここで終わりにしたくない」と思ったのは私だけじゃないはず。「トラベル東北被災地応援ボランティアツアー同窓会」のようなものは、あってもいいのではないか。アイディアや提案のある方、どんどん寄せて下さい。

この5年、いろいろな意味で、本当にありがとうございました。

(株)トラベル東北
社長 山口スティーブ